Gyakuren — 禅宗様建築に咲く、魅惑の花
私が初めて逆蓮を意識して見たのは、京都・南禅寺の三門の上だった。息を切らしながら二階へ上がり、ふと顔を上げた瞬間、そこに彼女がいた。逆さに咲く、一輪の四角い蓮の花である。
望柱の頂に鎮座しているにもかかわらず、その姿は寺院でよく見かける擬宝珠とはまるで違っていた。整った筒状の輪郭もなければ、玉ねぎのような宝珠頭もない。四角柱の姿に幾重もの蓮弁をまとい、高く結い上げた髪のような頂部を載せ、優雅でありながらどこか見慣れない佇まいを見せていた。
最初に思ったのは、「これはきっと日本の大工たちが生み出した独自の意匠なのだろう」ということだった。中国建築では見たことのない造形だったからだ。ところが禅宗様建築への理解が深まるにつれ、事はそう単純ではないことに気づき始めた。日本建築史で「逆蓮(ぎゃくれん)」と呼ばれるこの装飾は、決して南禅寺だけのものではない。鎌倉・円覚寺舎利殿、京都・東福寺三門、建仁寺法堂、金閣寺二階の高欄など、禅宗様を代表する建築のほとんどに、その姿を見つけることができるのである。もっとも、その造形はそれぞれに個性を持っている。
数ある作例の中でも、とりわけ印象深いのが円覚寺舎利殿と東福寺三門である。
円覚寺舎利殿の逆蓮は実に独特だ。ラッパの末端を広げたような細長い花蒂の先に、下向きに開く蓮花が垂れ下がる。その姿はまるで逆さに吊るされた不思議な植物のようである。建築部材というより、南宋時代から伝わった一つの工芸作品と言った方が近いかもしれない。古雅で、神秘的で、どこから来たのか説明しきれない不思議な魅力をたたえている。
一方、東福寺三門の逆蓮はまったく異なる表情を見せる。花蒂はずっと短くなり、蓮弁はふっくらと膨らみ、全体の輪郭は球体に近い。舎利殿が「逆さに咲く」という姿そのものを強調しているとすれば、東福寺は一輪の蓮花を丹念に造形しているように見える。神秘性はやや薄れるが、その代わりに成熟した優雅さが感じられる。
すると一つの疑問が浮かび上がってくる。禅宗建築の源流が中国にあるのだとすれば、なぜこの装飾は今日の中国古建築ではほとんど姿を消してしまったのだろうか。本当に中国から来たものなのだろうか。
追跡──敦煌壁画から『営造法式』へ
少し調べてみると、興味深い手掛かりが見つかった。敦煌莫高窟第172窟北壁の『観無量寿経変』には、楼閣建築の高欄望柱の頂部に、擬宝珠を思わせる柱状の装飾が描かれている。そこにはまだ明確な逆蓮の姿は見られないものの、望柱頭を飾る伝統そのものが、中国において極めて古い時代まで遡れることを示している。
仏教彫刻や仏教建築では、本尊の下に高い須弥座が設けられることが多い。上段には仰蓮が刻まれ、本尊を支え、中段には束腰が入り、下段には覆蓮が彫られて基壇へとつながる。一般に、上へ向かって開く仰蓮は清浄・再生・光明を象徴し、下向きの蓮は花の散り際や生命力の衰えを連想させるとも言われる。では、なぜ逆蓮という形が望柱の頂に置かれるようになったのだろうか。
その理由の一つとして、建築空間を聖化し、吉祥性を与えるためであったという説がある。仏教美術や経典には、しばしば「散華」の場面が登場する。仏法が広まるとき、天界から無数の曼陀羅華や蓮華が降り注ぎ、供養と祝福を捧げるのである。こうした花々は、遥か高みにある浄土からゆっくりと舞い降りる。その際、重力によって花弁は下を向き、花蒂は上を向く。まさに逆蓮の姿そのものである。したがって、この倒垂する蓮花は、仏法が天上から人間世界へ降りてくること、慈悲と智慧が虚空を越えて衆生へ届くことを象徴しているとも考えられる。仏法の「入世」を視覚化した意匠とも言えるだろう。
さらに『営造法式』にも関連する記述があることを知った。同書は鉤欄望柱について、「方一寸五分(破瓣仰覆蓮華單胡桃子造)」と記している。わずか一文ではあるが、その中には方柱、覆蓮、仰蓮、胡桃子という構成要素が含まれ、望柱頭を飾る一つの体系が示されている。
そして何より興奮したのは、その後京都・興正寺で、この記述に驚くほどよく似た実物を目にしたことである。逆蓮、仰蓮、そして宝珠が順に積み重ねられたその姿は、『営造法式』の記録とほぼ一致していた。少なくとも、宋代建築文献と日本に現存する実物との間に、一つの確かな継承の流れが存在することを示しているように思えた。
舎利殿と東福寺──同じ源流、異なる歩み
興正寺の作例は、『営造法式』の体系をそのまま受け継いだもののように見える。各部材の構成が明瞭で、層ごとの関係も理解しやすい。それに対して円覚寺舎利殿の逆蓮は、単純な積み重ねではない。長い花蒂と逆蓮という二つの要素へと高度に整理され、簡潔で流れるような一体感を獲得している。
そのため私は次第に、舎利殿の逆蓮は南宋期の江南地方に存在した禅宗建築の原形を何らかの形で伝えているのではないか、と考えるようになった。もちろん、これはあくまで私自身の推測にすぎない。現時点では、それに直接対応する中国の現存実物は発見されていない。一方、『営造法式』に記された体系は、中国北方に由来する別系統の建築伝統を反映しているようにも見える。
それに対して東福寺三門の逆蓮は、また別の魅力を持っている。逆蓮としての基本的特徴を保ちながらも、全体の比例はより均整が取れ、花弁はより豊かに膨らんでいる。私の直感では、舎利殿は海を渡って伝わった古い遺物のように見えるのに対し、東福寺は日本の職人たちが長い年月をかけて磨き上げた優雅な変奏形のように感じられる。もっとも、これもまた直感にすぎない。
長崎浮世絵に現れた、もう一つの逆蓮
逆蓮の発展の流れがおおよそ見えてきたと思っていた頃、ある日何気なく浮世絵を眺めていて、まったく異なる姿の逆蓮に出会った。
歌川広重は『長崎丸山遊廓の美津氏』の中で、長崎の風情を色鮮やかに描いている。その遊廓の精巧な高欄には、小さな金色の逆蓮が二つ添えられている。その姿は舎利殿とも東福寺とも異なる。南禅寺、舎利殿、建仁寺、金閣寺、そして東福寺の逆蓮はいずれも縦方向の線を基調としており、端正で内向的な印象を与える。最も変化に富んだ東福寺の作例でさえ、花弁の先端にわずかな丸みを加えている程度である。ところが『長崎丸山』に描かれたものは、輪郭が大きく外側へ開いている。逆さに伏せた小さな鐘のようでもあり、小ぶりな蓮蓬のようでもある。
再び疑問が湧いてくる。長崎は江戸時代以来、日本と中国を結ぶ重要な交易港だった。浮世絵に描かれた多くの細部にも、中国的な要素が色濃く表れている。では、この扇形に開いた逆蓮は、中国本土では失われてしまった建築伝統を記録しているのだろうか。それとも、日本人が思い描いた「中国風」の再解釈であり、創造なのであろうか。
いまだ解けない問い
今あらためて逆蓮を見返してみても、その魅力は少しも色褪せない。一方には敦煌壁画や『営造法式』という、中国へとつながる確かな手掛かりがあり、もう一方には日本の古寺に残された豊富な実物資料がある。しかし、その両者をつないでいたはずの多くの建築は、すでに歴史の彼方へと消え去り、今では確かめる術がない。
いつの日か、新たな考古学的発見がこの謎を解き明かしてくれるかもしれない。あるいは答えは、まだ誰にも注目されていない古建築の片隅に、静かに眠っているのかもしれない。それまでは、禅宗様建築の高欄の上にひっそりと咲くこの逆さの蓮花が、これからも私の視線を引き寄せ、何度でもその姿を探させることだろう。